霊仙三蔵さまの生い立ちとその生涯

 霊仙三蔵さまは、今から1200年前(759)息長氏丹生真人族の長子として、霊山山麓の地に生まれたといわれています。幼くして仏門に入り、金勝寺別院霊山寺(霊山七カ寺のーつ、松尾寺、安養寺他)から奈良の法相宗興福寺に入山されました。
 得度され、804年に最澄様や空海様と共に当時の世界文化の中心地、唐の長安に仏教求法の為、渡唐されました。その後、最澄様や空海様は相次いで帰国されました。
 渡唐時、霊仙さまは卓越した才によって,梵語(サンスクリット語)を修得。石山寺で発見された『大乗本生心地観経』の筆受並びに訳語の重責を果したことで当時の大唐国憲宗皇帝から認められ、『三蔵』の称号を贈られました。
号を賜った高僧は、仏教発祥の地インドでは般若他四名、中国では玄奘他一名、西域で一名、日本で一名と、世界中でわずか八名しかいません。
 霊仙さまは三蔵法師の号を賜った日本人唯ひとりの高僧であり、大秘法『大元帥明王法』を日本に伝えられました。
その後、憲宗皇帝が暗殺され、仏教徒弾圧が日に日にひどくなると、霊仙さまは長安から五台山へ逃れながら修行されておられました。内供奉僧という皇帝の側近くにあって相談役を勤めた高僧であったため、再三の帰国願いも許されず、827年、五台山の南、霊境村霊境寺にて六十八歳の生涯を閉じられました。
 霊仙三蔵さまの事跡は、嵯峨天皇との交流(続日本後記)や、慈覚大師円仁さまの『入唐求法巡礼行記(840)』、又、大正二年に石山寺の経蔵で発見された『大乗本生心地観経』などから明らかになりました。
望郷の念を抱きつつ、その生涯を閉じた霊仙三蔵さまは、霊境村の人々によって手厚く葬られたと言われています。

※三蔵の称号=インドの国のお釈迦様の教えを書き留めた梵語(サンスクリット語)の経典:梵夾を漢語に訳し、経典に編したもの。訳経は困難な作業です。三蔵は「経,律、論」に精通した者に授けられる号です。